西脇 八幡神社

ご祭神 

主座:誉田別命 (ほんだわけのみこと = 第15代・応神天皇)  
     ○厄除・勝負(必勝祈願)・出世開運の守護

左座:息長帯比賣命 (おきながたらしひめのみこと = 応神天皇の母君・神功皇后)
   ○安産・教育の守護

右座:比賣大神 (ひめおおかみ。宗像三女神)  
   田心姫(たごりひめ)
   湍津姫(たぎつひめ)
   市杵島姫(いちきしまひめ)   
   ○海陸の交通安全・子育ての守護 水の神

   また、主祭神と比賣大神、母君が一緒にお祀りされている事から、
   家族円満・夫婦和合・恋愛成就・縁結びの守護があるといわれます。 
 
   ※主座は社殿中央、左座は向かって右、右座は向かって左です。
 
     比賣大神とは主祭神の奥様や娘、また所縁の深い神様のことで、
     固有の神様の名前ではありません。

本殿様式
三間社流造 正面千鳥破風 
檜皮葺
向拝正面に唐破風(からはふ)、脇に縋破風(すがるはふ)を持ちます。
(現在は幣殿と本殿の隙間を防雨防埃の為に塞いでいますので向拝部分は社殿横から確認するのみです。)
本殿の彫刻は丹波國柏原の中井権次橘正貞の作と再建時に再利用した作者不詳の物が混在、拝殿の彫刻は加西郡(現加西市)の神田氏の作です。


案内図


由緒沿革 

当社創建は記録によりますと、平安時代早期の元慶元年(皇紀1537年/西暦877年)10月、
天台宗智證大師・円珍なる人の勧請により八幡宮が創始されたとあります。
この地にお社が創始されたのは「播磨國風土記」に描かれた主祭神・応神天皇の御巡狩に因を発していると思われます。<クリック>

その後の長徳2年(995年)、この頃は「本地垂迹説」が盛んに唱えられていた時代で、当社境内にも別当寺として真言宗応供寺(おうぐじ)が建立され、明治元年(1868年)に「神仏判然令」が公布されるまでの約870年程の間、別当(僧侶)と氏子により神社が守られてきました。
八幡神は仏教伝来後の早い時期に仏教と習合し繋がりを深く持った為、仏教の広がりと共に寺の境内地に八幡社が祀られたり、僧侶主導の元、神社が建立される事も多く、また仏教信仰の深まりとも相まって、この地においても地域社会の密接な繋がりがより深く形成されていたと考えられます。
その後江戸時代になると、産業の発展や文書主義の浸透により教育の需要が高まり、全国各地に寺子屋が開かれるようになりました。当社でも文政7年(1824年)応供寺に寺子屋が開かれ、地域住民の子弟育成に大きく貢献しました。
しかし明治の世になると、全国の神社は国家の直接支配下に置かれる事となり、当社においても応供寺は廃寺、「神仏判然令」を過激な思想で解釈した「廃仏毀釈運動」の波にのまれ、仏像などは行方知れず。当時の別当は還俗し、神職として神社をお守りしたそうです。

《別当寺が当社に建立されていた名残として、それまで隋神門横にあった阿弥陀堂と鐘撞堂は現在、本殿より東へ約100mの位置に移設され、境内社・新宮(しんみや)神社としてお祀りしております。
(鐘撞堂の梵鐘は、戦時下の昭和18年に供出、鐘撞堂の建物自体は昭和39年に台風で倒壊、現在は礎石が残るのみです)》

更に明治7年(1874年)2月には無格社から村社に列せられ、国より幣帛料を賜るようになりました。
【皇紀2605年(昭和20年)の大東亜戦争敗戦により、全国の神社は勅令第719号に則って国家支配を離れ、夫々に独立した法人格を持つ宗教法人へと変化しました。現在は幣帛料はありません。】

境内施設に目を向けますと、台風で倒壊するなど創建当時よりの建物は残念ながらひとつも残っておらず、本殿は3度の、弊殿及び拝殿は4度の再建が行われ、現在の本殿は嘉永2年(1849年)、弊殿及び拝殿は明治40(1907年)にそれぞれ建て直されたものです。
昭和32年には屋台の宮入りに支障があり怪我人の出る恐れがある事から境内拡張工事が行われ、この年の例大祭には化粧屋台8基(現在は4基)仲之町子供神輿1基が無事宮入りし、大いに賑わいました。
この昭和32年に、氏子区内で一番最初(昭和27年)に化粧屋台を作った北本町有志により二の鳥居横から境内に入れる、通称「たいこみち」が奉納されています。この「たいこみち」が造られた事により、境内に神輿・屋台が宮入りできるようになっただけでなく、やがて自動車や車いすの方にも利用して頂けるようになりました。(化粧屋台以前(特に戦前)は暴れ太鼓(笹太鼓)[※注1]が主でしたので、隋神門からなんとか入っていたそうです。
化粧屋台は境内に入れず、一の鳥居の前で差し上げて帰っていました。)
さらに昭和38年には奉納玉垣工事も完了、今の境内の姿が完成しました。

平成2年、老朽化した市民病院前の一ノ鳥居も新しく大きなもの造り替えられ、平成23年には傷みの激しかった本殿檜皮屋根の葺替工事も無事に終り、現在に至っています。

また当社は10月の例大祭に、ご祭神の応神天皇・神功皇后の故事にちなんで行われる全国でも珍しい神事、
“お笑い神事” がある事でも知られています。

      ▽お笑い神事の様子▽
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  お笑い神事参考資料(pdf)は画像クリック
 ※注1 暴れ太鼓(笹太鼓)は、現在の化粧屋台の高欄より上の部分がない、担き棒と泥台部分のみ
    で構成された簡素で素朴な屋台です。
    装飾が無い分、機動力があるので「暴れ太鼓」の名の通り、横倒しになったり上下に激しく
    揺さぶる等、見ごたえのある荒っぽい取り廻しが魅力です。
    乗り子(屋台に乗って太鼓を叩く役目)がむき出しの状態なので、より迫力を感じます。
      現在市内で残っている暴れ太鼓は高田井町鎮座の春日神社のみです。
    担き棒の交差する井桁の四隅に笹を立てたものを「笹太鼓」と呼んでいました。


年中行事

1月1日~歳旦祭,初詣
2月18.19日厄除大祭(厄神祭)
9月15日八幡祭
10月体育の日前日例大祭
11月中七五三詣
毎月1日月次祭


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